つねに「信念」をもって、
仕事に邁進してきました。
葛西甚八
(株)マルジンサンアップル
 代表取締役会長
(株)アップルランド南田温泉
 代表取締役会長

簡単に楽をして儲けたい!
今の世にそんな都合の良い話があるのだろうか?
人生と商売に立ち向かう事 前へ前へと進む事
夢は目の前にある 幸せは後からちゃんとついてくる
波乱万丈で歩んだ「りんご人生」の物語です。

幼少時代

 葛西甚八は、大正6年に平賀町新屋(平川市)に生まれました。両親は田畑を本家からもらい、家も新築でき、自転車も買えるほどの暮らしぶりでした。勉強も良くでき、成績は常に一番。祭りの時期は夜宮で相撲をとったりと腕っぷしもとても強かったのです。
 家を建てて2年目小学校4年生の時、火事で家を全焼してしまいました。しかし、村人のおかげで山から切ってきた栗の生木を使い家を建ててもらう事が出来たが、家と呼べるような物ではなく小屋そのものでした。その為父はずいぶんと落胆しやけになり、毎夜、博打場へと通うようになってしまいます。暗い夜道に提灯を下げ、父を迎えに行く事は本当に辛いものでした。焼けた家の借金と博打の借金を返す為、本家から譲り受けた田畑を売っても借金は無くなりませんでした。
 母も、とても辛かったと思います。時々泣いていたようでした。母は大変、手先が器用な人で、針仕事などを得意としていました。村の若い娘さんが大勢見習いに来ていたり、村でただ一人、髪結いが出来たのでお嫁に行く娘さんの為、いつも母が出かけていったものです。家族を養う為母は「むしろ」の仲買を始め必死に働く毎日でした。

14歳で出稼ぎへ

 いくら頑張っても借金が無くなる事はなく、小学校を卒業したばかりの14歳の時、父親に連れられて出稼ぎに出る事に。昭和2年5月の事でした。出稼ぎ先は蟹工船と呼ばれる船に乗り、函館から一週間かかる、カムチャッカ半島の蟹の漁場です。
 仕事は、捕れた蟹を船内下にある工場で茹でて、缶詰に詰める作業をしていました。20歳以上の大人に混ざり、子供は私一人でした。作業は朝2時から夜の11時まで続き、連日の大漁で眠る事もままならない状態でした。当時は労働基準法などなく睡眠時間も2〜3時間と少なく、食事は三食ご飯と漬け物だけ。魚は捕れても口にする事は一度もありませんでした。棒を持った小頭がつねに見回り、少しでも居眠りをすれば頭を叩かれ、過酷な労働に睡眠・栄養不足の為、背中の骨が曲がってしまう程でした。
 出稼ぎは蟹工船の他に、岩手や秋田で土方をしたり、捕鯨船に乗ったりもしました。家にも帰らず働き続けても貧乏のままでした。

商人として独立

 いくら出稼ぎで働いても、親の借金は無くならないと思いました。当時、平賀に大きなりんご問屋があり、次々と白い土蔵を増やしていくのを見て「ようし、おれも商人になろう」と決心したのが16歳の時でした。
 まず、30円で自転車を買い、様々な物を売り歩きました。出稼ぎも21歳でやめ、23歳からりんごの仲買業を始め、大阪や関西に移出、神戸の貿易会社を経由して台湾・シンガポール等、東南アジアに輸出。この時期3年で、ついに親の借金を返す事ができました。
 知人から「甚八」と言う名前は珍しい!他では聞いた事がないし、とても良い名前だと助言され、屋号を「(マルジン)」とし、りんごは「甚八りんご」として売り出しました。
 当時の東南アジアでは、りんごは有名になりつつある果物で貴重品でした。技術の向上も有り、甘さ、大きさ共に日本のりんごは高級品として認められてきました。常に良いりんごを出荷し、りんごと言えば「青森」、ではなく「マルジンサンアップル(甚八りんご)」として広める事ができたのです。特に「世界一」は人気が高く、現在ではサンふじ・金星・王林等に人気が集まっています。

葛西甚八商店創業の頃、従業員と一緒に(前列左から二番目が葛西甚八)

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